「手の橋」を求めて コロナ禍三年目の報告

てのはしが発足した2003年から2019年までの16年間、てのはしの炊き出しに並ぶ人の数はだいたい200人前後で推移してきており、2015年くらいから減少傾向にありました。路上生活者も全国的に減少し、日本のホームレス問題はこのまま静かに終息していくのかと思われました。

 しかしコロナ禍で状況は変わりました。サービス業を中心に多くの産業が大打撃を受け、炊き出しに並ぶ人は急増しました。新型コロナウイルスの感染者数は増減を繰り返していますが、炊き出しに並ばれる方は一貫して増加傾向が続いており、最近は400~500人以上の方が食事のために天候に関わらず並ばれているのが現状です。

炊き出しに並んだ人の数を、コロナ前の2019年からの半年ごとの平均をみると、見事な肩上がりにあります。*下図参照

コロナ禍初年度の2019年は、生活困窮の「波が来た」と感じる程度でしたが、2年以上経過した今は「津波が来た」と感じています。しかもその津波は終わりが見えません。

炊き出しの場の雰囲気も大きく代わりました。コロナ禍前は現役の路上生活者と、生活保護などを受けて路上から脱した元路上生活者がほとんどで、多くは顔見知りでした。手作りのホカホカご飯をその場で腹一杯食べて、身体が温まり、こころが満たされました。また、炊き出しを食べる方同士や、スタッフとの語らいの場でもありました。

しかしコロナ禍になってからは、感染防止のためにお弁当は持ち帰り・会話は禁止とせざるを得ず「こころ満たされる」雰囲気は失われました。

そして、並ぶ方々の顔ぶれも変わりました。

 今回はコロナ禍で新たに炊き出しに並ぶ方ようになった方々について、二人の例からお話します。

一人目は、ハンバーガーショップで働いていた28歳の服部君です。若くして店長に起用されるなど順に働いていた服部くんですが、コロナ禍で営業時間が短縮され、アルバイト人員が削られ、時間帯によっては店長がワンオペ営業を強いられました。過酷な労働環境で数ヶ月後には体調を崩し退職。失業保険と貯金があったのですぐに路頭に迷うということはなかったものの、体調はなかなか回復せず、先が見えません。いよいよ切羽詰まった時に『東京 ご飯 ただ』とスマホで検索して、炊き出しがあることを知りました。そのときのことを彼は「不安にばかりでした。失業保険があるうちに仕事を探さないと・・でもいつから仕事に復帰できるのか・・」と焦燥感で悶々とした日々だったと語ってくれました。

初めて炊き出しに並んでみて、予想を遙かに超える人の列を見て衝撃を受けたとも言います。「年配の男性が多いのかと思っていたけれど同年代も多いんだな、女性も、シングルマザーかなと思う子連れの人もいました」とその多様性に驚いたそうです。

彼は炊き出しで弁当を受け取り、さらに医療相談で不眠対策のアドバイス、生活相談では生活保護など支援制度の説明も受けました。

「今は支援をしてもらうけど早いうちになんとかここから抜けだそう」と決意して就職に成功。今は元気に働きながらてのはしの炊き出しでボランティアスタッフとして活動しています。

 *服部君の詳しいインタビューがてのはし会報誌42号に掲載しています。てのはしのサイトに飛んでお読みください。

服部君の例から考えてみましょう。

まず言えるのは、それまでは普通に働いていた方々が炊き出しに並んでいることです。

 昨年、炊き出しに並ぶ人に「新型コロナワクチンの摂取券を受け取れますか」とアンケートを行ったところ「受け取れる」と答えた人が半分以上でした。その方々は家があると考えられるので、今、炊き出しに並んでいる人の半分以上はホームレス状態ではないと推測できます。

そんな方が炊き出しに並んでいるのは、服部くんのように、コロナ禍で収入が減ったうえに、追い打ちを掛ける物価高もあり、生活が安定する兆しが見えず、先行きに不安を感じて、やむにやまれず炊き出しを訪れているのだろうと推測しています。

一ヶ月に2回の炊き出しで削れる食費はたかがしれています。しかし、炊き出しは単に食糧を配るだけでなく「困窮して、社会からはじき出された」と感じている人たちにエールを送って、「一人ではない」と感じられる場でもありたいと思います。

かつて炊き出しに並んで、今、炊き出しをする側に回った服部くんは、参加する理由を「困ったときに、物理的にも精神的にも助けてくれる人がいるというのは励みになりました。困ったときに助けがあるのはとても大事です」と語っています。

炊き出しにならぶ人の若年化は確実に進んでいます。生活相談に来る人の半分以上は40代以下の働き盛りの世代で、今や若者がスマホ片手に並ぶ姿も当たり前となりました。

*今はスマホが情報の命綱となっていることから、炊き出しの日の公園内では連携団体のつくろい東京ファンドが無料Wi-Fiを設置してくれています。

さまざまな人たちが炊き出しに並ばれている現実がありますが、その一方で、生活困窮の波があらゆる階層を襲っているわけではないということも言えます。生活相談に来る人で一部上場企業の社員や公務員だった人などほとんどいません。育ちがよく見えても、よくよく話を聞けば育った家庭が貧しく、低学歴であったり、軽度の障害を抱えたりして、コロナ禍前から困窮していたという方が大部分です。そのような方がコロナ禍で真っ先に切り捨てられてどん底に突き落とされたという印象があります。

また、驚くほど児童養護施設出身者が多いという事実もあります。年齢層に関係なく、家庭の支援が得られない人たちが真っ先に困窮することがわかります。

炊き出しに並ぶ人の中に女性が増加したことも顕著な変化です。

二例目として、大林三佐子さんについてお話ししたいと思います。

大林さんは1956年広島生まれ。人と接するのが大好きで、アナウンサーになるのが夢でした。地元の劇団に所属し、明るい性格で人気者だったそうです。

27歳で結婚して上京したものの、夫の暴力が原因で離婚。その後地元に戻りコンピュータ関連の会社に就職したものの「仕事についていけない」と悩んで30歳で退職。再び上京し、その後は数年おきに転職する生活を送っていたようです。家族思いで、母と弟へかわいい自筆イラスト入りのクリスマスカードを欠かすことはありませんでした。

そしていつしかマネキン仕事(スーパーやデパ地下などで試食・実演販売を行う)のをするようになりました。人と接するのが好きな大林さんは、お客さん相手に生き生きと働いて、子どもたちにも人気だったそうです。しかし賃金は安くて生活は苦しく、家賃を滞納して大家さんにも黙って部屋を出た後は、ネットカフェなどを転々するようになりました。マネキンの仕事は続けていたそうですが、家族に手紙を送ることはなくなっていきました。

そして2022年、コロナ禍が襲いました。対面の試食販売の仕事は全滅。何の保障もなく仕事を失った大林さんはスーツケースに荷物を入れて街をさまようしかなかったようです。

いつしか、渋谷区のバス停で終バスから始発までの数時間座って休んでいる大林さんの姿が見られるようになりました。心配した街の人の差し入れをしようとしても優しい笑顔で「私は大丈夫」と断っていたそうです。

 2020年11月16日の早朝、大林さんは石とペットボトルが入った袋で殴られて亡くなられました。犯人は近くに住む、精神を病んで家業の酒屋を母と営んでいた40代の男性で、警察の調べに対して「邪魔だった。お金をあげるからバス停からどいてほしいと頼んだが、断られて腹が立った」という供述があります。

*大林さんについては、すべて新聞・テレビ番組からの情報です。

コロナ前、てのはしの炊き出しで女性の占める割合は1%程度で、そのほとんどが高齢者でした。しかしコロナ禍の現在は5~10%近くとなっています。きれいな服装をしてメイクした方や、母子連れの女性がならぶことも多く、女性も若年化が進んでいます。

コロナ禍で真っ先に仕事を失った方の多くは大林さんのように非正規雇用で働いてきた女性で、そのかなりの部分が飲食や大林さんのマネキンなどのサービス業であるとわかっています。もともとぎりぎりの生活で苦しんでいたところに、コロナ禍で大きな打撃を受けて困窮し、炊き出しに並ぶようになった方が多いことが増加の原因でしょう。

因みに、女性の割合が今でも約10%というのは、男性と比較して女性の困窮者が少ないと言うことを示しているわけではありません。ある女性から「暗い公園で、男性ばかりの列に並ぶことは女性にとって恐怖。並ぶことを何回も諦めた」という声を聞きました。炊き出しに並びたいけれど並べない女性は相当数いることが予想されます。

そのような方が最後に頼るべきは生活保護です。生活保護法では「住所がない人は現在いる場所の福祉事務所が保護の責任を負う」と定めていることから、家がない人も申請可能です。しかし、大林さんが生活保護の申請や相談をした記録はどこの役所にもありませんでした。

大林さんのように、孤立して誰にも相談できずに一人で耐えている女性もまた多いのではないかと思います。孤立は貧困の原因の一つであり、その度合いをさらに深める大きな要因です。

 大林さんがなぜ生活保護の相談にも行かなかったのかは推測するしかありません。家を失った上にコロナ禍で失業し、もう何も考えられず、前に進むこともできない状態だったのかもしれません。夢に溢れた青春時代だったのにすべてを失ってしまった今の自分が許せなかったのかもしれません。そもそも生活保護が受けられること自体を知らなかったのかもしれません。知っていても親兄弟に連絡が行く可能性があることから心配させたくないと思ったのかもしれません。人に迷惑を掛けたくない、その一心だったのかもしれません。 

実際、コロナ禍でも生活保護の申請者数は微増の状態です。困窮した人が急増しているのに生活保護の申請が増えない理由は『生活保護についての否定的なイメージ』と、『扶養照会で親族に連絡が行く』ことであると考えられます。困窮した人の多くは生活保護を受けるよりも各種の貸付金(緊急小口資金など)を受けることを選ばれ、窓口の社会福祉協議会には長蛇の列ができました。生活保護がもっと利用しやすく、「困ったときは助けを求めていい」ということが社会全体の合意になれば大林さんの人生もまた違った展開があったかもしれません。
それまで慎ましいながらも希望を持って生活してい た方が、困窮へ追いやられてしまっている事実があります。

このお二人の例からも、困窮と闘って生き抜くためには相談できる場の必要であると感じられます。

失業中などで孤立すれば言葉を発する機会が無くなり、ひとりで『もうだめだ』と不安のループに陥ってしまいがちです。炊き出しなどの支援があることは知っていても、とくに若い方や女性が会場を探し出して、列に並んでお弁当を受け取るまでには多くの勇気とエネルギーが必要かもしれません。

それでもボリュームたっぷりのお弁当でお腹を満たせれば『勇気を出して受け取りに来てよかった』と安心感と自己肯定感から心がほぐれるでしょう。お弁当を受け取る際に『はい、どうぞ』『ありがとう』と言葉を交わすだけでも何かが変わるかもしれません。

そして相談コーナーに行ければ、これまでの苦労を話して、今後のことを一緒に考えることができます。それは新たな生活への一歩です。炊き出しに行くことで、こころが温まり、並んでいる人や支援者と垣根なく繋がって、東池袋中央公園に虹のような『手の橋』がかかることを夢見てこれからも活動を続けたいと思います。

この記事を書いた人

清野 賢司

代表理事、事務局長。
中学校社会科教諭を2017年3月に退職後、TENOHASIの専従に。
2019年より精神保健福祉士。