TENOHASIが作り出す癒しの空間

 1月13日(土)の炊き出しの場で、越冬活動から参加されているボランティアのKさんが、こう言っていた。「わたし、ここに来ると何か癒されるのよね」
以前にも別の2、3人の人達から同じ言葉を聞いた事がある。
 たしかに手の橋の炊き出しには、他地区にはない何かがあるようだ。その何かが気になっていて、何か探しを今、頭の中でやりながらこの文章を書いている。
 手の橋は闘う団体ではなく、それぞれが持っている有形無形の何かを持ち寄りながら活動をしている、ごく普通のボランティア団体である。でも何か同系の他団体とは違う雰囲気を持っていると、外からは見られているようだ。この団体の活動に参加するための条件や資格は一切ない。あるのは一つだけ。自分が無理なく出来る労働やスキルを提供し、一緒に場を作っていく。
 そして皆で作り上げた場の中で、支え合い、認め合う。人間が誰でも持っている弱さや未熟さも、そのまま受け入れ補い合う。そんな場の雰囲気が、炊き出しに食べに来る当事者のみならず、ボランティアに参加するメンバーにとっても癒しの空間になっているのではないだろうか。そうだとすれば団体名にある橋「ハッピースペース池袋」が、少し出来てきたと言ってもいいのかもしれない。
 かなり前に団体外部の人から「手の橋はバラバラだね」と言われた。私はその時、少し「ムッ」とした気分でその言葉を聞いていた。しかし、その人がどういう意味でバラバラと言ったのかは分からないが、現在の私はバラバラだから手の橋なのであり、それで良いと考えるようになっている。手の橋は考え方の方向性を求めない、活動能力のレベルも求めない。活動分野は特定していても、明確な目的や方向性に沿って、活動内容に合ったレベルの人材を集め、運営をしている団体ではないからこそ生まれる、不思議な雰囲気がある。手の橋には様々な人々が集まっている。色々な職業をはじめとして、生活状況、考え方の方向性、職務遂行能力のレベル、参加者の年齢等々。組織はお世辞にもしっかりしているとは言い難い。まさにバラバラである。
 競争し争う団体ではないから、ここでは仲間を評価しランクづけすることも、必要もない。職務分担も仲間相互の信頼関係の中で決定されていく。競争はもちろん、権力闘争もないから競争原理にもとづいて切り捨てられることも、切り捨てることもない。無いものは無いままで、有るものは有るままで良い。遅いものは遅いままで、早いものは早いままで良い。
 ここでは自分が人と違っていてもいい場所、一人一人が持って生まれたものが違うことを自然に表現出来る場所。日常生活で疲れた人々が、人間らしく生きられる、ひと時を求めて集まる場所。そういう場が手の橋のメンバーが活動する空間の中で出来つつあるように思える。

「人間は、我々が宇宙と呼ぶ全体の一部であり、時間と空間の制約を
受ける存在である。
人間は、自分自身や自分の思考や感情を、他から切り離されたものとして
経験するが、それは意識が作り出す錯覚である。
この錯覚は人間にとって牢獄のようなものであり、人間の欲望や愛情を、
身近にいるほんの少数の人にしか向けさせない。
我々人間の務めは。理解と同情の輪を押し広げることで、
この牢獄から自らを解き放ち、
すべての命あるものと美しい自然を、心から受け入れることだ。」
[アルバート-アインシュタイン]

 人間を含むすべての命は、命の輪の中で生かされている。生かされていることを感謝しつつ、欲ばらずに自分が出来る社会活動を少しやる。皆でこの世に生を受けた者同士が、命を自然に活かし合える場を作る。活かし合うのはその場に参加している全ての人達である。
 そして無理をせずに長くやる、出来ればのんびりやる、自分も楽しんでやる。そんな場にしていきたい。そして池袋だけではなく、地球上にハッピーな空間を広げていきたい。

(路上のコラムニストX)

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