当事者の望む援助が、団体の意志決定の段階において、団体メンバーとして議論に加わり、対等な一票として当事者の意見が反映されていく良さもある、従って当事者は、当事者感覚を失わずに活動に参加する姿勢が求められるだろう。
団体の援助関係も、対象者ー実践者という一方通行の援助のみではなく、「対象者」が「実践者」になることによって、自分自身が抱える問題も、援助活動に参加しながら客観的に解決の糸口を見つけてゆく場になるのではないだろうか。団体の会議の中で討議される諸問題は同じ仲間の問題であると同時に、自分の問題でもあり、その問題解決に参加することは、自分の問題解決につながってゆく。
その他にも当事者が「実践者」になることのメリットはある。多少宗教的な言い方になるが、それは「自発的意志を原則として、自分の中にある有形/無形のものを他人のために提供できる喜び」を体感できること。
E・フロムの言葉を引用すればこうなる。
「自分の生命を与えることによって、人は他人を豊かにし、自分自身の生命感を高めることによって、他人の生命感を高める。もらうために与えるのではない。与えること自体が喜びなのだ」
この考え方は、ボランティア活動の基本に近いと思っていて、私の好きな言葉の一つでもある。従ってボランティア活動に参加するためには、自分自身の生命感を高めなくてはいけないことになり、自分の生命感が衰えているときに「対象者」に接すると、対象者の生命感も衰えさせてしまう。自分も「対象者」も生命感が高まってゆくのが本来のボランティア活動であると思っている。
このような意義づけに基付いて、当事者ボランティアの参加勧誘を意識的に行っていくことも、TENOHASIの支援活動に奥行きを与えることになるのではないだろうか?
(路上のコラムニストX)